1.パレスチナ刺繍とは?
パレスチナ刺繍(アラビア語で「タトリーズ/تطريز)は、パレスチナの女性たちが日々の暮らしのなかで受け継いできた伝統的な手仕事で、布に色糸で幾何学模様を刺して作られます。
特に赤や黒を基調とした色彩が特徴的で、刺繍に用いられるモチーフはパレスチナにゆかりのある植物をはじめとして動物や星、鍵など多岐にわたります。
この刺繍は単なる装飾ではなく、用いられるモチーフや色合いによって着る人の出身地、婚姻状況、社会的立場などを表す、一目でわかる”身にまとう自己紹介”のような役割を果たしてきました。
2.パレスチナ刺繍の歴史と変遷
タトリーズの起源は古代まで遡るとも言われますが、現在広まっている様式に整ったのはオスマン帝国時代から20世紀初頭にかけてのこととされます。当時は村や地域ごとにも異なる特徴をもつ模様や色づかいがあり、刺繍は主に日常着の「トーブ/ثوب」や特別な機会に着られる花嫁衣裳などに施されていました。
タトリーズは家々やコミュニティ内で受け継がれてきただけでなく、人が集まる都市部では異なった特色をもつ精巧な刺繍技術が発展した結果、ラマッラーでは手工芸の専門学校ができ、ベツレヘムでは複数の織物センターが開設されてパレスチナ・ファッションの中心地として繁栄するなど、文化的・経済的にも重要な存在であり続けて来ました。
1948年の「ナクバ(大災厄)」では商業的・文化的にタトリーズを担っていた織物センターがイスラエル軍により破壊されただけでなく、生活や人々を取巻く環境が変化し家庭や村々でも実践が困難になったためタトリーズは衰退の一途を辿りました。
しかし1960年代になると、止むことのない侵略・占領への抵抗を表現する強力な手段として、タトリーズはその意義を見直され、パレスチナ人女性らの間で再び広まりました。
その後現在に至るまでのタトリーズの担い手の多くは元々暮らしていた場所を追われた難民であるため、地域ごとの特色は次第に混ざり合い、更に、材料や機材などが思うように手に入らないという制約に伴って、デザインはナクバ以前よりも簡素化されました。
3.パレスチナ刺繍の主な使い道

伝統的には以下のような用途がありました:
- トーブ(女性の伝統衣装):婚礼用、出産後、喪服など場面ごとに異なる刺繍が施されました。
- ベルト、ベスト、ヘッドスカーフなどの装飾
- インテリア用品:クッションカバーやテーブルクロスなど
- 祈りの場や祝祭の場の布装飾
現在では、タトリーズはパレスチナの大切な伝統文化の一つであるとして、パレスチナの現状に想いを寄せ解放を主張する世界中の人々から親しまれており、元来の用途だけでなくブローチやキーホルダーとして身に付けられたり、コースターなど気軽に日常に取り入れられるアイテムのデザインとしても広がりをみせています。
日本においては、パレスチナの方々とともにタトリーズを取り入れた着物の帯を製作されるプロジェクトも存在します。
>>パレスチナ刺繡×着物帯 対等なビジネスで「戦争だけじゃない、素敵な一面広めたい」
https://globe.asahi.com/article/16015699
(パレスチナ刺繍帯プロジェクトについての朝日新聞社Web記事)
4.パレスチナ刺繍のモチーフ

タトリーズは幾何学的・抽象的なパターンの組合せで構成され、それぞれのモチーフが意味をもっています。
- 糸杉(cypress tree):生命力と祖国への帰属
- 鳥:自由と魂の象徴
- 鍵:ナクバ以降の「帰還権」のシンボル
- 星や月:宇宙的な秩序と宗教的信仰
- ブドウ、ナツメヤシ、麦などの植物:肥沃な土地と農業文化
など、主に自然の動植物に由来するこれらのモチーフには上に挙げたほかにも数多くの種類があり、これらを複雑に組み合わせられた模様には、どこかモザイクやタイルの模様にも通じる美しさがあります。
5.パレスチナ刺繍の現状

現在、タトリーズは大きく二つの潮流にあります。
①パレスチナ人ディアスポラによる保存活動
ディアスポラとは、離散した先で集まった同じ属性(国籍や宗教、ルーツなど)をもつ人々から構成されたコミュニティのことです。世界各国に暮らすパレスチナ人ディアスポラやパレスチナを想う支援者が、刺繍技術を保存・普及するワークショップやオンライン販売を行っています。
②刺繍を通じた政治的・文化的表現
パレスチナ人女性たちやパレスチナの解放を求める世界各国の人々が刺繍により想いを表現するプロジェクトや、難民となったり家族を失ったことで収入源を失ったパレスチナ人女性が生計を立てる手段としての刺繍プロジェクトが世界各地で立ちあがっています。2021年には、タトリーズは”パレスチナ刺繍の芸術・実践・技術・知識・儀式”というタイトルのもとユネスコ無形文化遺産にも登録されました。
かつてはパレスチナの家々で母から娘へと伝えられていた刺繍技術は、現在では手工芸協同組合、難民キャンプの女性団体、国際的なアートプロジェクトなどによって支えられています。
また、インターネットや書籍を参考に世界中の個人によってタトリーズが学ばれ広がっている現状もあります。

タトリーズは今や、単なる伝統的な手仕事にとどまらず、より大きな意味を持つ存在です。
占領下のパレスチナ・そして世界中で難民として生きるパレスチナ人女性の経済的自立を支える手段であり、同時に、現地の自然と強く結びついたデザインによって見る者に豊かな文化・歴史を語ってくれるパレスチナの存在証明としても重要になったのです。
長く続くイスラエルによる文化侵略・略奪に日々向き合っているパレスチナ人達にとっては、自分達のルーツを確固たるものにする文化的な誇りの源、心の拠り所でもあります。

