解体されたあと、そこにいる人々はどうなるのか
パレスチナについて話していると、ある地点で必ずこの問いにぶつかります。
「イスラエルは解体されるべきだと思う」——そう述べる人に対して、相手はたいてい同じ質問を返します。では、解体されたあと、イスラエルに住んでいる人々はどうなるのか。
この問いは正当なものです。現在、地中海とヨルダン川のあいだには約七百万人のユダヤ系イスラエル人が暮らしています。その大半はそこで生まれ、そこ以外に帰る場所を持ちません。国家が解体されるとき、その人々に何が起きるのでしょうか。追放されるのでしょうか。海に追い落とされるのでしょうか。それとも、何か別のことが起きるのでしょうか。
先に、この記事が扱わないことを述べておきます。
一つは、二国家解決の是非です。この記事が立てているのは「イスラエルという国家が解体されたら、そこに住む人々はどうなるのか」という問いですから、二つの国家の並存を支持する読者にとっては、そもそもこの問いは立ちません。ただし、まったく無縁というわけでもありません。あとで述べるように「解体」という語には複数の意味があり、そのうち占領とアパルトヘイト法構造の解体という第一の意味は、二国家案の立場からも当然に要求されるものだからです。道が分かれるのは、その先です。
もう一つは、追放を本気で望む人々の存在です。「イスラエルを解体せよ」と唱える人のなかに、実際に追放を意味している人がいないとは言いません。歴史的パレスチナからユダヤ人がいなくなればよいと考える人は、たしかに存在します。その存在を否定するところから議論を始めても、誰も説得できないでしょう。
この記事が示したいのは、もっと限定的なことです。すなわち、パレスチナ解放をめぐる主要な政治構想は、いずれも追放を提案していないということ。そして、提案していないことには、感情的な理由ではなく、はっきりとした理論的な理由があります。その理由を追いかけていくと、「解体」という言葉が実際には何を指しているのかが見えてきます。
ひとつ、あらかじめ強調しておきたいことがあります。以下の議論は、要求を穏健にするためのものではありません。憲法原理の解体、パレスチナ難民の帰還権、土地と財産の返還、指導的立場にある者の刑事責任——これらの要求はいずれも取り下げられません。要求が根本的であるからこそ、その対象を取り違えてはならない、というのがこの記事の立場です。
1 「解体」という語には、三つの異なる意味がある
この問いが恐ろしく響くのは、本来まったく別のものである三つの対象が、「解体」という一語のなかで溶け合っているからです。分けてみましょう。
第一に、占領とアパルトヘイト法構造の解体。 西岸地区とガザ地区に対する軍事占領、入植地、分離壁、二重の法体系。これらを終わらせるという要求です。国際司法裁判所は2024年7月の勧告的意見で、占領地におけるイスラエルの継続的な存在は違法であり、可能なかぎり速やかに終結させる義務があると判断しました。ここまでは、国際法の主流の立場とほぼ重なります。
第二に、エスノクラシー的な憲法原理の解体。 一つの民族集団に国家が帰属するという原理そのものを撤廃するという要求です。イスラエルの場合、2018年の基本法「ユダヤ人国家法」が、民族自決権の実現はユダヤ民族に排他的に属すると明記しました。第二の意味での解体とは、この排他性を法的に終わらせることを指します。
第三に、そこに住む人々の物理的な排除。
「イスラエルの人々はどうなるのか」というある種の懸念は、第一と第二の議論が、いつのまにか第三へと滑り込むことによって生じます。けれども、この滑り込みは論理的に必然ではありません。
そして重要なことに、第三を主張している主要な運動体は(私の知る限り)存在しません。例えばBDS運動が掲げる三つの目標は、占領の終結、イスラエル国内のパレスチナ市民に対する差別の撤廃、そして国連総会決議194にもとづく難民の帰還権の承認です。ユダヤ人の追放は、そこに含まれていません。
2 では、具体的に誰がどうなるのか
抽象的な話を続けても仕方がありません。人々を一つの塊として扱うのをやめて、分けて考えてみましょう。
移行期正義と呼ばれる分野の議論を借りるなら、ある体制が終わるとき、そこに関わっていた人々は少なくとも三つのカテゴリーに分かれます。
加害者。 具体的な犯罪について、指揮責任または実行責任を負う人々です。国際刑事裁判所は2024年11月21日、イスラエルのネタニヤフ首相とガラント前国防相に対し、戦争犯罪および人道に対する犯罪の容疑で逮捕状を発付しました。容疑は、戦争の手段としての飢餓の利用、殺人、迫害などです。同じ日、同じ裁判所は、ハマースの軍事部門指導者ムハンマド・ダイフに対しても逮捕状を発付しています。2025年12月、上訴審はイスラエルによる管轄権への異議を退け、逮捕状は維持されました。
受益者。 犯罪を実行してはいないけれども、その体制のもとで特権を享受してきた人々です。ユダヤ系イスラエル人の大多数がここに入ります。国民国家の受益者であることは、それ自体では犯罪ではありません。しかし免責されるわけでもありません。彼らに対応するのは処罰ではなく、是正です——返還、賠償、帰還する難民の受け入れ、そして特権の喪失を意味します。
構造。 法制度、憲法原理、統治の様式。これは人ではありません。人だけを裁いても、構造は残ります。
この三分割が理解できれば、冒頭の問いに対する答えの形が見えてきます。大多数の人が失うのは特権であって、生命でも居住権でもありません。
処罰には幅がある
もう一点。日本語で「処罰」と言うとき、多くの人は投獄のようなものを思い浮かべるかもしれません。しかし移行期正義の道具箱は、もっと広いのです。
| 手段 | 内容 |
| 国際刑事訴追 | 指揮責任・上官責任を問う |
| 国内訴追・普遍的管轄権 | 第三国の裁判所による訴追 |
| 資格剥奪 | 公職・治安機関からの排除。有罪認定を要しない |
| 条件付き恩赦 | 完全な真実の開示と引き換えの免責 |
| 真実究明 | 委員会の設置、公文書の開示 |
| 民事責任 | 土地・財産の返還、賠償 |
| 標的制裁 | 資産凍結、渡航禁止 |
| 企業に対する措置 | 投資撤退、公的調達からの排除、輸出許可の取消 |
どの手段が適用されるかは、「誰であるか」ではなく「何をどの程度したか」によって決まります。この配分の原則こそが、集団的な帰責を防ぎます。
なかでも資格剥奪は重要です。これは刑罰ではありません。有罪判決を必要とせず、投獄もしません。しかし体制を担ってきた人々を権力の座から外すという意味で、構造の解体そのものです。刑事司法と構造変革のあいだをつなぐ蝶番が、ここにあります。
政治家と企業
責任は、制服を着た者だけのものではありません。
イスラエルの入植政策については、国連人権高等弁務官事務所が人権理事会決議31/36にもとづき、入植地に関連する事業活動を行う企業のデータベースを公表しています。2020年に112社で始まり、2023年の更新を経て、2025年9月26日の更新では11か国158社が掲載されました。ただしこのデータベースは、掲載企業の活動が違法であると法的に判定するものではない、と報告書自身が留保しています。
より踏み込んだのが、国連特別報告者フランチェスカ・アルバネーゼが2025年6月に提出した報告書「占領の経済からジェノサイドの経済へ」です。武器製造、テクノロジー、建設、採取産業、銀行、年金基金、保険、大学、慈善団体という部門ごとに関与の形態を分類し、48の企業主体を名指ししました。この報告書は、共犯を終わらせるには幹部を含む民間部門の責任追及が不可欠であり、国際法は責任の程度に差異があることを認めていて、そのそれぞれが精査を要すると述べています。
法技術的な注意が一つあります。国際刑事裁判所のローマ規程は、自然人しか裁くことができません(第25条1項)。したがって「企業そのものの刑事責任」を同裁判所で問うことはできず、追及できるのは幹部個人の刑事責任、および企業に対する非刑事的な措置ということになります。とはいえ、企業幹部を刑事的に裁いた先例は存在します。第二次大戦後のニュルンベルク継続裁判では、IG・ファルベン事件、クルップ事件、フリック事件などで、実業家たちが訴追されました。
では、入植者はどうなるのか
当然の疑問です。ここでも条文を読むと、意外なほど明確な答えが出てきます。
ローマ規程第8条2項(b)(viii)は、占領国が自国の文民たる住民の一部を占領地域に移送することを戦争犯罪と定めています。文言上、犯罪の主体は移送を組織する国家当局であって、移り住んだ個人一人ひとりではありません。したがって、
- 入植政策を立案・実行した政治家・官僚 —— 刑事責任の射程
- 入植地の建設・維持から利益を得た企業とその幹部 —— 幹部は刑事責任、法人は非刑事的措置
- 暴力を行使した入植者個人 —— 個別に刑事責任
- 上記に当たらない一般の入植者 —— 受益者として、返還・退去・補償の枠組み
ここには、パレスチナ人の側にとって不都合な含意も含まれています。つまり、入植者の多くは刑事責任を問われないということです。ですがそれは、責任を制度的に処理するとはそういうことだ、という以上の意味を持たないはずです。
3 南アフリカが示しているのは、成功ではなく未完である
この文脈でしばしば引かれるのは、「白人が追放されなかった」、アパルトヘイト後の南アフリカの事例です。実際、それは正しい指摘です。植民者が自発的に権力を手放した数少ない事例として、南アフリカは単一民主国家構想の支持者たちにとって重要な参照点であり続けています。
けれども、これを成功例として提示すると足元をすくわれます。
政治学者マフムード・マムダーニー(2025年にニューヨーク市長になったズフラーン・マムダーニーの父親)は2002年の論文「恩赦か、それとも不処罰か」で、真実和解委員会(TRC)の報告書に三つの限界を指摘しました。アパルトヘイトの被害を個人化してしまったこと。アパルトヘイトを、先住者と非先住者を異なる仕方で統治する権力の様式として捉え損ねたこと。そして、アパルトヘイトの加害者の大半に不処罰を及ぼしたことです。
これは重要な指摘です。マムダーニーは著書『Neither Settler nor Native』で、政治的暴力には政治的解決が必要であって刑事司法ではないと論じ、ニュルンベルク裁判に続く脱ナチ化を失敗として位置づけています。しかしそのマムダーニーが、南アフリカについては不処罰の拡大を批判しているのです。
つまり彼が反対しているのは処罰そのものではなく、刑事司法が移行の組織原理となり、構造変革の代替物になってしまうことです。つまり、少数を裁くだけで、社会構造は温存された。それが彼の見るニュルンベルクの失敗でした。
日本にも似た経験があります。戦後の公職追放は、体制を担った人々を一時的に公職から排除しましたが、数年のうちに解除され、追放されていた者の多くが政界・官界・財界に復帰しました。人を排除したけれども、構造は変わらなかったのです。
南アフリカが教えるのは、したがって、次の二つのことです。人を追放しなくても体制は解体できる。しかし、体制を解体しきらなければ、追放しなかったことの意味も失われる。 マムダーニー自身、反アパルトヘイト闘争を未完のプロジェクトと呼んでいます。
4 それでも残る反論——「国家を失うことは、絶滅を意味した」
ここまでの議論に対しては、最も強い反論が存在します。それを弱いかたちで紹介するのは不誠実ですから、できるかぎり強いかたちで置きます。
第一に、原理的な反論。ユダヤ人国家の終焉を求めることは、もはやイスラエルの政策に対する批判ではなく、反ユダヤ主義である——アメリカ・ユダヤ人委員会(AJC)などはこの立場を明確に取っています。世界のあらゆる民族のなかでユダヤ人だけが自決権を持たないという主張は、それ自体が偏見だという論理です。国際ホロコースト記憶同盟(IHRA)の「反ユダヤ主義の作業定義」は、他国に向けられるのと同様の批判は反ユダヤ主義ではないと明記していますが、AJCは、国家の終焉を求めることはその範囲を超えると論じます。
第二に、歴史的な反論。そして、こちらのほうが重いものです。
二十世紀のヨーロッパで起きたことを、多くのユダヤ人は次のように理解しています。国家を持たなかったこと、どこの国民でもなかったことが、絶滅を可能にした。 無国籍であるとは、誰も守ってくれないということでした。だから、国家を失うという提案は、ホロコーストの記憶を持つ人々にとって、政治制度の変更ではなく、生存の条件の剥奪として響きます。
この反論を「プロパガンダだ」と切り捨てることはできません。それは歴史的な経験に根ざしています。そして、この記事の冒頭に置いた問い——「解体されたあと、人々はどうなるのか」——は、イスラエル側から見れば、まさにこの恐怖の表現なのです。
第三に、実現可能性の反論。シオニストがそのような構想に同意するはずがない、というものです。単一民主国家キャンペーンはこれに対して、シオニストの同意を前提条件にはしないと明確に答えています。アパルトヘイト体制を崩壊させ、民主国家への移行を受け入れさせることが課題であって、そのために彼らの許可は必要ない、と。この答えが十分かどうかは、読者が判断すべきことかもしれません。
そして以下の議論は、これらの反論への応答として読まれるべきものです。
5 体制を解体するとは、何を解体することなのか
憲法によって守られる少数者として
2018年、ハイファでパレスチナ人とユダヤ系イスラエル人の活動家・知識人・研究者によって、単一民主国家キャンペーン(ODSC) が立ち上げられました。「川から海まで」の歴史的パレスチナを脱植民地化し、一つの民主国家を樹立することを掲げる運動です。
注目すべきは、その綱領がユダヤ系イスラエル人の処遇について何を述べているかです。ODSCの綱領は、ユダヤ系イスラエル人の集団的権利を憲法によって承認し保護すること、民主国家の枠組みのなかで彼らが共同体を維持できるようにすることを明記しています。そしてその狙いは、少数者としての安全に対する彼らの懸念に応えつつ、同時に特権と支配の構造を解体することにある、と説明しています。
これは前節の第二の反論に対する、直接の応答になっています。平等な市民権は、もちろん、絶滅を意味しません。 むしろ少数者になることが安全の喪失を意味するという前提こそが、憎きエスノクラシーの前提なのですから、それを解体する構想が少数者保護を組み込むのは論理的に当然のことです。
もっとも、ODSCの内部にも幅があります。「一国家という現実はすでにある、あとは平等な権利を実現するだけだ」という再編路線と、「入植植民国家イスラエルを解体し、民主的なパレスチナ国家を樹立する」という路線とでは、力点が異なります。けれども、いずれの路線も、そこに住む人々の追放を提案してはいません。
アイデンティティを脱政治化する
理論的にこれを遠くまで押し進めたひとりが、前節でも触れたマムダーニーです。
彼の議論はこうです。植民地支配とは、恒久的な少数者を作り出し、アイデンティティを政治化することによってそれを維持する営みだった。ならば脱植民地化とは、そのアイデンティティの恒久性を解体することでなければならない。人種、民族、宗教、部族といったアイデンティティを脱政治化し、ネイションと国家権力の結びつきを断つこと。
彼が「脱シオン化」と呼ぶのは、ユダヤ的アイデンティティとパレスチナ的アイデンティティの双方を脱政治化し、イスラエルが恒久的な多数派に奉仕する装置ではなく、権利を保護する民主主義に移行することです。
そしてこの構想における人々の行き先は明確です。加害者と被害者はサバイバーへ、入植者と先住者は市民へと転化します。国民国家は包摂的な民主主義になります。追放という選択肢は、この理論のなかにはそもそも登場しません。人を移動させるのではなく、人に貼りついた政治的カテゴリーを解除することが、この構想の作業だからです。
コラム 「民族は国家を必要とするのか」——ボヤーリン『無国家解決』
2026年8月、ダニエル・ボヤーリンの『無国家解決——一ユダヤ人のマニフェスト』の邦訳が作品社から刊行されました(赤尾光春・早尾貴紀訳、原著は2023年)。ここまでの議論とは別の角度から同じ問題に切り込む本ですので、簡単に紹介しておきます。
ボヤーリンはカリフォルニア大学バークレー校の教授で、ユダヤ文化研究を専門としています。彼はこの本を、一つの行き詰まりの告白から始めます。パレスチナ人に対する完全な正義と、生き生きとしたユダヤ民族文化の存続。自分が抱くこの二つの軸は、正面から矛盾するように見える。後者を実現する唯一の道はイスラエル国家の存続を支持することのように思われるが、その国家の存在こそが前者を不可能にしている。正義か自分の文化かを選べと言われれば正義を選ぶほかないが、その喪失は耐えがたい——彼はそう書いています。
まず、書名について誤解のないように述べておきます。「無国家」が否定しているのは、国家一般ではなく、いわゆる国民国家(ネイション・ステート)です。ボヤーリンは自分をあらゆる国民国家に反対する者として規定しており、パレスチナについては、少なくとも二つの民族からなる国家を構想していると明言しています。彼が拒むのは、ネイションが国家という形をとらねばならないという前提そのものなのです。
この立場には副次的な効果があります。「他の民族はみな国家を持っているのに、ユダヤ人にだけ持つなというのは反ユダヤ主義だ」という論法が、彼には効きません。彼はすべての国民国家に反対しているのですから、ユダヤ人を例外扱いしていることにはならないからです。前節で挙げた第一の反論に対する、ユダヤ人自身の口から出た応答として、これは重いものだと思います。
では、国家を持たないユダヤ的生とは、どのようなものでしょうか。ボヤーリンが持ち出すのがディアスポラ民族という概念です。ディアスポラを、失われた主権の欠如態としてではなく、それ自体として創造的な生の形式として捉え直す。彼はこれを二つの語で説明します。一つは戦前の東欧ユダヤ人労働運動ブントの語彙であるドイケイト(דאָיקייט、「ここ性」)——自分がいま共に生きている人々の福祉への関与です。ブントの標語に、自分が生きている場所こそが自分の故郷だ、というものがありました。もう一つがイディッシュカイト——他の場所に住む同胞との文化的・情動的な結びつきです。この二重性こそがディアスポラ的な生の形式であり、それは欠如ではなく豊かさなのだ、というのが彼の主張です。
彼はまた、シュムスキーの研究に依拠して、ピンスケル、アハド・ハアム、ヘルツルといった初期シオニズムの中心人物たちが、主権的なユダヤ国民国家をそもそも構想していなかったと論じます。彼らが求めたのは多民族国家のなかの自治領域だった、と。ただしボヤーリンは、これがより穏健なシオニズムの擁護と読まれることを繰り返し拒んでいます。国家型であれ自治型であれ、いかなるシオニズムもすでにそこに千年以上暮らしていた人々の土地の重大な収奪を伴った、そしてパレスチナ人には誰も尋ねなかった——彼はそう明記しています。
この歴史的議論から取り出すべき論点は、一つです。ネイションと国家の結合は近代の産物であり、シオニストの内部ですら自明ではなかった。組み立てられたものは、解体しうる。
マムダーニーと並べると、対比が鮮やかになります。マムダーニーはネイションを解体して国家を残す(ネイションなき国家)。ボヤーリンは国家を手放してネイションを残す(国家なきネイション)。両者は国民国家というハイフンを、正反対の端から切り離しているわけです。
パレスチナ側にも呼応する議論があります。ライラ・ファルサフ編『Rethinking Statehood in Palestine』(2021年)は、若いパレスチナ人研究者たちを集め、国民国家を民族解放の目的地とみなす前提そのものを問い直した論集です。ファルサフは序論で、パレスチナの脱植民地化には、過去と現在の暴力と不正を認めつつ、領域的主権よりも市民権を優先する新しい政治枠組みが必要だと論じています。
同時に、警戒の声もあります。ジョゼフ・マスアドは論文「自決に抗して」で、自決という理念が反植民地的なものだという通念に異議を唱え、むしろ帝国列強が「征服の権利」を「自決の権利」と等置し、反植民地ナショナリズムを制限するために用いてきたと論じました。ポスト国民国家的な語彙が、植民地化された側の要求を先回りして無効化する装置になりうる——この警戒は、記憶されるべきものです。パレスチナ側の思想は一枚岩ではなく、国家をめぐって内部で論争しているのです。
なお、ボヤーリン自身、この本が政策的な解決策を提示するものではなく、将来を想像するための語彙を提供するものだと述べています。「解体されたあと、人々の法的地位はどうなるのか」という問いに直接答えるのは、やはり前節までの議論のほうでしょう。
むすび——精密であることは、「当たり障りない」ことではない
冒頭の問いに戻りましょう。イスラエルが解体されたあと、そこに住む人々はどうなるのか。
これまでの議論が示す答えは、こうです。市民になる。
ごく少数の者は刑事責任を問われます。体制を担ってきた者は公職から外れます。特権を享受してきた多数の人々は、その特権を失い、返還と賠償の対象となり、帰還する難民を隣人として迎えます。そして、平等な市民として、そこに住み続けます。
これは妥協ではありません。ODSCが構想するように、憲法によって集団的権利を保護されながら、支配の構造は解体される。マムダーニーが論じるように、入植者と先住者という政治的カテゴリーそのものが解除される。ボヤーリンが示唆するように、ユダヤ的な生は国家を必要としない——むしろ国家によって痩せ細ってきたのかもしれません。
最後に、この記事をここまで読んでくださった、パレスチナ連帯の側に立つ読者に対して、一つだけ述べておきたいことがあります。
責任を個人に帰属させ、証拠にもとづいて認定するという規律を、手放してはならないということです。「イスラエル人だから」という集団的な帰責が始まった瞬間、それは、イスラエルがガザの住民に対して用いてきた論理と同じものになります。集団に対して集団として応答することは、批判している当のものを再生産することでしかありません。
刑事責任の個人化は、追放論への譲歩ではありません。追放論を封じる装置です。
そして、精密さを追求することは、当たり障りないことを意味しません。「追放しない」という一点を明確にすることは、要求の後退ではまったくない。むしろその逆で、要求が体制の根幹に及ぶものだからこそ、その対象を正確に指し示さなければならないのです。何を解体するのかを曖昧にしたままでは、解体は始まりません。
主な参照文献・資料
- One Democratic State Campaign 綱領および公式サイト
- Mahmood Mamdani, Neither Settler nor Native: The Making and Unmaking of Permanent Minorities (Harvard University Press, 2020)
- Mahmood Mamdani, “Amnesty or Impunity? A Preliminary Critique of the Report of the Truth and Reconciliation Commission of South Africa,” Diacritics 32(3-4), 2002
- 国際刑事裁判所 予審裁判部第一 決定(2024年11月21日)
- 国際司法裁判所 勧告的意見(2024年7月19日)
- Francesca Albanese, “From economy of occupation to economy of genocide,” A/HRC/59/23 (2025)
- 国連人権高等弁務官事務所 企業データベース(2025年9月更新)
- ダニエル・ボヤーリン『無国家解決——一ユダヤ人のマニフェスト』赤尾光春・早尾貴紀訳、作品社、2026年
- Leila H. Farsakh (ed.), Rethinking Statehood in Palestine: Self-Determination and Decolonization Beyond Partition (University of California Press, 2021)
- Joseph Massad, “Against Self-Determination,” Humanity, 2018

