友人をボイコット(BDS)に誘うとき、私たちが本当に問われていること

ガザでの暴力が続くなか、講演や勉強会の後で、こんな相談を受けることがあります。

「イスラエル製品をボイコットしたい。それを友達にも伝えたいが、どうやればいいか分からない。『そこまでしなくても』『分断を生むだけでは』『個人を罰してどうするの』と言われると、何も返せなくなる」

ボイコット——BDS(Boycott, Divestment, Sanctions:ボイコット・投資撤収・制裁)運動——は、2005年7月9日、170を超えるパレスチナ市民社会組織の呼びかけで始まりました。労働組合、難民支援団体、女性団体、職能団体など、占領下のパレスチナ人、難民、イスラエル国籍のパレスチナ人——三つの構成要素のすべてを代表する連合です。南アフリカのアパルトヘイト撤廃運動に着想を得た非暴力の運動として始まりました。

▼BDS運動の概要については、Olive Journalの解説記事をご覧ください。

しかし、この運動について「友達に伝える」という場面では、運動の正しさを論証することだけでは足りません。むしろ、説得しようとすればするほど、関係がぎくしゃくしてしまうことがあります。

この記事では、ボイコットを誰かに誘うとき、私たちが何を本当に問われているのかを一緒に考えてみたいと思います。BDS運動の内部にも議論があり、私たち自身も完全な答えを持っているわけではない、ということを率直に出発点にしながら。

目次

1. まず、自分のなかで整理する——「誰のために、何のために」

友達を説得する前に、立ち止まりたい問いがあります。

なぜ自分はボイコットをしたいのか?

この問いは、思っているほど自明ではありません。「相手の企業を倒したい」「友達にも同じことをしてほしい」と思っているのか。それとも「自分が加担者になりたくない」「黙ったままの自分でいたくない」と思っているのか。両者は重なる部分もありますが、力点が違います。

実は、BDS運動自体も、この点について明確な自己規定をしています。BDS共同創設者の一人ウマル・バルグースィーは、BDSは個々のイスラエル人を標的にしたものではなく、占領・植民地主義・アパルトヘイトに加担する制度(institutions)を標的にしたものだと繰り返し強調してきました。アパルトヘイト時代の南アフリカに対する国際的圧力と同じく、国家とその構造的加担に対する非暴力の市民的行動——それがBDSの自己理解です。

つまりボイコットは、第一義的には「相手を罰するため」ではなく、「私が不正義の経済的・文化的な共犯者にならないため」の倫理的応答という側面を持っています。これを自分のなかで持っておくと、友達に対しても「あなたを変えたい」ではなく「私はこう考えてこうしている」という話ができるようになります。

説得を一旦脇に置く。これが意外と大事な出発点です。

2. 友達の不安に、正面から応える

そのうえで、友達がボイコットに違和感を持つとき、その違和感には正当な部分も含まれていることが多いです。よくある反論を、誠実に受け止めて応答してみましょう。

「ユダヤ人差別になるのでは?」

これは最も慎重に応える必要のある反論です。歴史的に、ユダヤ人ボイコットは反ユダヤ主義の暴力の前段階となってきました。ナチス・ドイツの1933年のユダヤ人商店ボイコットは、その後のホロコーストへと連なっていきました。この記憶は重く、軽視できません。

しかし、BDSが標的にしているのは、ユダヤ人という民族でも、ユダヤ教という宗教でもありません。国際法に違反する占領・アパルトヘイト・入植者植民地主義に加担する制度や企業が対象です。実際、BDSはユダヤ系の支持者を多く含む運動でもあります(Jewish Voice for Peace、IfNotNow などの組織がその例です)。

「ユダヤ人」と「イスラエル国家」と「シオニズム」を区別することは、それ自体が反差別の出発点でもあります。

「個人を罰することになるのでは?」

スーパーで働く店員や、たまたまイスラエル企業に勤めている友人を傷つけてしまうのではないか——この懸念も自然なものです。

ここでもBDS運動の自己規定が手がかりになります。前述のように、BDSは「機関ボイコット」であって「個人ボイコット」ではありません。標的になるのは、占領経済の維持に構造的に関与している企業や制度です。日本のBDSガイドラインを公開しているBDS Japan Bulletinなどでも、効果的で戦略的なボイコット対象が整理されています。すべてのイスラエル製品やイスラエル人を遠ざけることが目的なのではなく、加担の構造そのものを揺るがすことが目的です。

「経済を傷つけるだけでは?」

南アフリカのアパルトヘイト体制に対する国際ボイコットは、経済を「傷つけた」からこそ機能しました。1980年代の国際的な経済制裁と投資撤収は、アパルトヘイト体制の終焉を加速させたとされています。バルグースィーはアル=ジャズィーラのインタビューで、デズモンド・ツツ大主教の言葉を引いて

「他のいかなる持続的抑圧の状況でも、人権団体は国家とその制度に対する処罰的な措置を求める。イスラエルだけが西洋において台座の上に置かれ、国際法の上位にあるかのように扱われてきた」

と述べています。

経済的圧力をかけることは、暴力ではなく、暴力に対する非暴力的な代替手段です。

「対話で解決すべきでは?」

ここが、おそらく一番難しい論点です。ボイコットは関係を断つことに見える。対話こそが平和の道ではないのか、と。

この問いには、運動の歴史的・思想的な蓄積があります。次の節で詳しく見ていきます。

3. 「対話」をめぐる、運動内部にもある議論

「ノーマライゼーション批判」とは何か

BDS運動の中心的な概念のひとつに、「ノーマライゼーション」批判があります。アラビア語で「タトビーウ(تطبيع)」と呼ばれるこの概念は、聞き慣れない言葉かもしれません。

BDS運動の定義によれば、ノーマライゼーションとは「本来異常なもの——占領、抑圧、不正義——を、あたかも普通であるかのように扱い、関係を結ぶこと」を指します。占領・アパルトヘイト・入植者植民地主義という異常な構造が継続しているにもかかわらず、それを「普通の関係」のなかに溶かしてしまう——そうした行為への批判です。

PACBI(パレスチナ学術・文化ボイコット委員会)の基準はより具体的です。パレスチナ人とイスラエル人の共同プロジェクトがノーマライゼーションでないと見なされるためには、次の二つの条件が必要だとされます。

①イスラエル側が、占領の終結、アパルトヘイトの終結、難民の帰還権を含むパレスチナ人の権利を公に承認していること
②そのプロジェクトが、占領・植民地主義・アパルトヘイトに対する共闘(co-resistance)の枠組みを持っていること。

単なる「共存(co-existence)」ではなく「共闘(co-resistance)」が求められる——これがPACBIの立場の核心です。

なぜ「対話」が批判されるのか

ここで重要なのは、ノーマライゼーション批判が「対話そのもの」を否定しているわけではない、ということです。批判の対象は、非対称性を覆い隠す対話です。

1980年代、パレスチナ人弁護士のジョナサン・クッターブ(Jonathan Kuttab)は「対話の落とし穴(The Pitfalls of Dialogue)」という論考で、当時のパレスチナ・イスラエル間の対話の多くが、軍事占領、移動の自由、水資源へのアクセスといった「日常生活に影響する中心的な問題」を避けて行われていることを指摘しました。クッターブの議論は、こうした対話が「偽の対称性を前提とし、行動の代わりとなり、抑圧的な現状の前提を正当化してしまう」というものでした。

占領者と被占領者を「対等な二者」として向き合わせる——その瞬間に、構造的暴力は見えなくなります。占領者の側は「対話している」というアリバイを得て、被占領者の側は「対話の相手」になることで現状を追認させられる。これがノーマライゼーション批判の核にある懸念です。

バルグースィー自身も、よりストレートな表現で「文化的ボイコットこそが必要なのであって、対話ではない。私たちは数十年にわたって対話をしてきたが、何の正義ももたらされなかった」と述べています。

しかし、運動の内部にも議論はある

ここまで読んで、「すべての対話がダメということ?」と感じる方もいるかもしれません。実は、運動の内部にも議論があります。

最近の象徴的な例が、2025年にアカデミー賞長編ドキュメンタリー賞を受賞した『No Other Land』をめぐる議論です。この作品は、ヨルダン川西岸地区マサーフェル・ヤッタ(Masafer Yatta)でのイスラエル軍によるパレスチナ人住民の追放を、パレスチナ人とイスラエル人の共同監督によって描いたものです。

PACBIはこの作品をノーマライゼーション的だとして批判しました。共闘の枠組みを十分に明示していない、というのが理由です。しかし、この立場に対して、映画の舞台となったマサーフェル・ヤッタの村評議会代表ニダール・ユーヌス(Nidal Younis)をはじめ、現地のパレスチナ人や活動家から異論が出ました。現場で苦しんでいる人々の声を世界に届ける手段としての協働を、運動の理論で一律に裁断していいのか、という問いです。

この議論には、簡単な答えはありません。ただ、重要なのは——運動の内部でも、原則と現実、理論と実践の間で誠実な議論が続いているということです。BDS運動は固定した教義ではなく、生きた運動です。

では、非対称性を前提にしたとき、何が言えるのか

ここまでを整理すると、こんな見方ができるかもしれません。

「対話」は本来、よいものです。互いの主張を聞き、誤解を解き、共通の地平を探る。これを否定する人はいないでしょう。

しかし、対話には前提条件があります。それは、対話の当事者が、互いを対等な主体として承認しているということです。一方が他方を物理的に支配し、移動を制限し、土地を奪い、生命を奪っている——そういう非対称な関係のなかでの「対話」は、対話の名を借りた現状追認になってしまう危険があります。

だからこそ、シオニスト側が——個人としてではなく、構造として——非対話的な姿勢を取り続けるとき、つまりパレスチナ人の権利や存在そのものを承認することを拒み続けるとき、それでもなお「対話を」と言うことは、結果として加害の側に立つことになってしまう。ボイコットは、その非対称性を可視化するための一つの手段です。

非対話的に見えるかもしれません。しかしそれは、対話の前提条件を取り戻すための、迂回路でもあります。

4. それでも、友達とは話し続ける

ここまで読んで、こう思った方もいるかもしれません。「では、ボイコットを支持しない友達とは、距離を置くべきなのか?」

答えは、そうではありません。

ノーマライゼーション批判は、パレスチナ人とイスラエル人——占領する側と占領される側——の「和解の偽装」への批判です。日本の友人関係のなかで意見が違う相手と話さないこと、ではありません。むしろ、私たちが連帯のために必要なのは、対話的な関係を増やしていくことです。

そのときに大事なことがいくつかあると思います。

・説得しようとするより、自分が何を見ているかを話す。
友達に「あなたは間違っている」と伝えるよりも、「私はこれを見て、こう感じていて、だからこうしている」と話す。事実は事実として伝える必要がありますが、相手を論破することがゴールではありません。

・相手を変えるのには時間がかかる。種を撒くという感覚で。
一度の会話で人の世界観は変わりません。でも、種を撒くことはできます。何年か後、別の出来事をきっかけに、その種が芽を出すかもしれません。

・ボイコット以外の連帯のかたちも、一緒に考えられる。
署名、デモ、寄付、学習会、SNSでの発信、パレスチナ文化に触れること、パレスチナ料理を作って一緒に食べること。BDSはひとつの選択肢であって、唯一の入口ではありません。友達にとって入りやすい形があるなら、そこから始めてもらえばいい。

・そして、自分のボイコットの理由を、繰り返し言葉にしておく。
「これは私が共犯者でいないための行動なんだ」と。そうすれば、友達がそれを採用するかどうかにかかわらず、関係は壊れません。

結び——完璧な戦略ではなく、誠実な出発点として

BDSは完璧な戦略ではないかもしれません。運動の内部にも議論があり、ノーマライゼーション批判の適用範囲をめぐっても見解は分かれます。日本における具体的な実践の難しさもあります。

でも、出発点だけは共有できると思います。非対称な暴力が続いているとき、「中立」でいることは、結果として強い側を支持することになる。これは、南アフリカでもそうでしたし、他のあらゆる構造的不正義についても言えることです。

友達にボイコット(BDS)を誘うとき、私たちが本当に問われているのは、論破の技術ではありません。「あなたは何を見て、何に応答しようとしているのか」——それを自分の言葉で語れるかどうかです。

完璧な答えを持ってから話す必要はありません。迷いや留保も含めて、誠実に話す。それが、ノーマライゼーション批判が本当は守ろうとしている、対等で人間的な対話の地平を取り戻す道なのではないかと思います。

参考リンク

Palestinian Civil Society Call for BDS(2005年7月9日の呼びかけ原文)

Olive Journal:BDS(不買・投資引き揚げ・制裁)解説記事

BDS Japan Bulletin:日本におけるBDSガイドライン

The BDS Movement’s Anti-Normalization Guidelines Explained

What is normalization? (+972 Magazine)

Normalization and co-resistance (Jonathan Kuttab, Mondoweiss)

PACBI’s Position on No Other Land

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この記事を書いた人

パレスチナ×日本のハーフ。博士(政策・メディア)。専門はパレスチナ地域研究。特に批判理論を通じたナショナリズム研究や、イスラーム政治思想などに関心。

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